PROFILE

プロフィール

高木 元輝Mototeru Takagi

  • 韓国名:李 元輝(Lee, Wong-Hi)

李の一家は韓国済州道出身の一族。一族の氏は「李」、そして正式には、「古阜」という本貫(始祖の出身地を表す)をもち、「古阜李氏」と名乗る。高木(李)元輝は1938年9月14日、京都府左京区にコリアンジャパニーズ第二世代として誕生。
二人の姉、二人の兄、そして、弟が一人の6人兄弟姉妹だった。族譜(家系図)によると、高木(李)元輝は35代目。先祖は両班(貴族)。李一族は、京都から北海道、そして、横浜の金沢文庫付近に移り住んだ。高木(李)元輝は横浜商業高校では、成績優秀、スポーツ万能で、女の子たちの人気者だった。テニスでは国体に出場できるほどの実力だったが、日本国籍でなかったことで出場できなかった。

中学生のときに、二番目の姉がフルートを元輝にプレゼントしてくれたことが、きっかけで音楽を始める。住まいの近くに米軍の基地(横須賀)があったので、少年時代には、米軍の基地に入り込んで、ジャズに触れることが出来たことが音楽の道への入り口だった。
吉屋潤とクールキャッツ、チャーリー石黒と東京パンチョスなどに参加。吉屋潤と渡辺貞夫(2年間)にサックスを師事した。銀巴里では、金井英人、神田重陽、武田和命らと共演。

その後、ニュージャズ/フリージャズの世界へ進む。68年吉沢元治トリオ(時には高木元輝トリオとも称した)に参加。69年に「富樫雅彦:ウィ・ナウ・クリエイト」日本のフリージャズのエポックメイキングなアルバムに参加。同年富樫雅彦と佐藤允彦の双頭グループESSGに沖至と参加。11月にスタートした「ニュー・ジャズ・ホール」に出演。12月映画「連続射殺魔」の為の音楽を富樫雅彦と録音。「アイソレーション」としてレコードになる。翌年、豊住芳三郎との活動を展開するが、71年春、豊住の渡米により中断。73年秋自らもパリに渡り、1年間の滞在で留学中の加古隆と共演。ヨーロッパで、高木の演奏は大きな衝撃を与えた。75年、近藤等則らとEEU(Evolution Ensemble Unity)結成。
70年代後半は、ミルフォード・グレイヴス、デレク・ベイリー、ヘンリー・カイザーなどと共演。1980年代前半に、インドでBhagwan Shree Rajneesh/ OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)と出会い、大きく影響を受ける。その時点で、脱在日韓国人を超越。李元輝(イ・ウォンヒ)という本名を名乗り始めた。

80年代以降、小杉武久との共演が数多い。日本に滞在していたダニー・デイヴィスとの共演もあった。盟友豊住芳三郎との共演は最晩年まで続いた。
晩年は豊橋に移り住み2001年、地元のクラブに不破大輔b、小山彰太dsを迎え『2001.07.06』(地底レコード)を残す。翌年、横浜に居を戻し、活動再開に備えたものの、2002年12月10日急逝。

アルバムに「深海 (1969)」、「2 TO 10 / Saxophone Adventure(Philips / 1970)」、「アイソレーション (1971)」 、「イフ・オーシャン・イズ・ブロークン(1971)」、「パリ日本館コンサート(1974)」、「モスラ・フライト(1975)」、「オリジネイション(1975)」、「蒼海」(1976)」、「ミルフォード・グレイヴズ/メディテーション・アマング・アス(1977)」、「デレク・ベイリー/デュオ&トリオ・インプロヴィゼイション(1978)」、「グロウ(1985)」、「薫的遊無有(1985)」「ライヴ・アット・ファーアウト、厚木(1987)」、「Live at Galerie de Café 伝 Tokyo 1987・1989」、「正心正道(1995)」「Love Dance (1987-1997)」「不屈の民」(1996)、「ライヴ・アット・ザ・リトル・ジョン、横浜」(1999)他。

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